“愛”という言葉がとても嫌いでした。
その言葉に、その言葉を使う人達の中に
執着
思い込み
押し付け
固執
偏見
盲目
甘え
依存
義務
を感じて、違和感を持っていたからです。
そんな中、一つの答えを見つけたのが幸村誠先生の描く『VINLAND SAGA』でした。
アル中の神父は愛を
「差別です」
と云うのです。
「親が子を 夫婦が互いを 大切に思う気持ち」
を
「王にへつらい 奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません」
と。
それを聞いた王子は
「世界が こんなにも美しいというのに 人間の心には愛がないのか」
と泣くのです。
この“愛=差別”というのは私にとてもしっくりきました。
例えば私は猫がとーっても好きなのですが、家で飼い始めたらうちの子が一番かわいいになるのです。
うちの子にノミがうつったらいけないから、外の子をなでるのは気が引ける。。。
同じかわいい猫なのに。
あ~、これは差別だったのか
と思うと納得できましたし、周りの人が云ってる“愛”も、この捉え方に落としこむと理解できました。(今思えば理解できたと思いこんでいた場面も多々あったと思います)
ここ数年、自分を取り巻く環境が大きく変化して、最近久々にその漫画を読み返しました。
そうしたらなんと、その前後にちゃんと“愛”とはどういうものか描いてあるのです。
あれ?
最初に読んだ私には“愛=差別”にしか見えてなかったのですが、今の私には“愛”がどういうものと描かれているかがちゃんと見えたのです。
雪が
空が
太陽が
風が
木々が
山々が
死んだ戦士が憎むことも殺すことも奪うこともせず その肉を獣や虫に惜しみなく与え 雨風にさらされても文句の一つも言わない姿が
愛だ
とちゃんと描かれていたのです。
なんだ、愛ってあるじゃん。
人間って自分の都合の良いところしか目に入らないのだな~。。。
「死は人を完成させる」とも
おぉ!正にシャヴァーサナ(和訳すると屍のポーズとか云われます)!
ただ、人の中に愛がないというのはどういうことか。。。
今の私の考えだと、ないんじゃなくて愛を純粋に愛の状態に保つのが難しいんだと思っています。
それは時と場合と環境といった外からの刺激ですぐ別のもの(執着やら義務やらetc...)に変化してしまうから。
だから自分自身をサットヴァ(純粋な状態)に保って、愛をそのまま愛として持っておけるように、みんな日々様々な修練をしているんだと思います。
漫画の発行年を見てみたら2007年。
10年もこの色眼鏡をかけてたんだな~。
あとBUCK-TICKファンになったのも2007年発売の曲からでした。
10年前の自分って面白い!
この考えも10年経つとまた変わっているんだと思うけど、今気づけてよかった。
こんな私に愛を与えてくれているみんなに、これからは私も愛を送りたいと思います。
常には無理かもしれないけど、ぶちギレちゃう時もあるかもしれないけど。。。笑
それでもその状態にいたいと思うこと自体が、愛のひとつだと思う。
こんな愛を連呼したことないので恥ずかしいしゲシュタルト崩壊してきたので、今日はこのへんで。。。
I love you!
コメントをお書きください